有松しぼり久田
有松の、街道入れば、絞りの久田
久田は伝統を受け継ぎながらも、つねに「今の時代」を表現するデザインを開発し、くらしという広い領域で製品を創り続けています。
和装はもちろん、洋服、ファッション小物、インテリア小物へと絞りの発想を広げ、魅力ある製品作りを追求しています。
有松の、街道入れば、絞りの久田
久田は伝統を受け継ぎながらも、つねに「今の時代」を表現するデザインを開発し、くらしという広い領域で製品を創り続けています。
和装はもちろん、洋服、ファッション小物、インテリア小物へと絞りの発想を広げ、魅力ある製品作りを追求しています。
400年前に誕生した有松村
絞りの里、有松が開村されたのは、慶長13年(1608)。江戸に幕府を開いた徳川家康が、第九子義直を尾張の藩主とした頃のことです。江戸、駿府(静岡)、関西を結ぶ交通が盛んとなり、尾張藩でも東海道の改修が必要とされ、宿場整備に取り組んでいました。
ところが、鳴海から東、桶狭間の古戦場あたりまでは、人里もなく松林が生い茂った物騒な場所でした。そのため尾張藩はこの付近に集落を設けようと計画、知多郡全体に布告して移住を呼びかけ、阿久比村から8名が移り住みました。そのなかのひとりに久田の先祖の名もあります。
はじめて絞りと出会った男
有松絞りの誕生の影には、村民たちの貧しい暮らしがありました。移住者たちは、山野の開墾に努力しましたが、村の面積が狭いため農業だけではとても生計が成り立ちません。有松村が宿場の間の小休所であったことから、旅人を相手に商う道はないかと思案していました。
そんな折りに、村人のひとりが、名古屋城の築城工事に来ていた九州豊後の大名の下臣が身につけていた絞り染めに魅せられたのです。絞りの開祖と称されるその村人はその後、絞り染めの技法を究明し、有松で独自の絞り染めをはじめました。
東海道一の名産品に
有松絞りは、村人たちの情熱と苦労に支えられ、急速に進歩を遂げました。寛文以降元禄、宝永に至るおよそ50年間、江戸時代最盛期には絞業はますます発展。ついに有松絞りは、街道一の名産といわれるまでになったのです。久田の本家である橋本屋は旧東海道の中心部に位置し、元禄期に創業しました。
尾張藩が有松絞りに深い関心を寄せ、自国の特産として積極的に保護の手をさしのべて奨励したのもこの頃のことで、有松の絞業者に対して絞り染めの専売権を与えました。
こうして、街道を行きかう旅人が里の土産に買い求め、北斎や広重の浮世絵にも描かれることにより、その繁栄はゆるぎないものとなったのです。
もとより橋本屋は宝暦期以前より知多木綿の買継問屋なども営んでいた名家で、天保期に休業中の問屋の再興にも尽しています。
有松絞りは世界の桧舞台へ
明治維新の変革は、有松絞りの商いにも影響を及ぼすことになります。独占専売権が解かれ、営業の自由が許されることになったのです。これが逆に絞り商人たちを奮起させることになり、絞り模様の新種発明や販売網の拡大を通じて、有松絞りはさらなる発展をめざしました。
明治33年(1900)、フランスの首都パリで世界万国博覧会開催時には、技術の粋を集めて優秀な綿布絞を出品しました。このとき有松絞りは、世界の桧舞台への進出を果たします。その際の受賞者六名に久田の本家も名を並べています。
久田は、大正2年(1913)に橋本屋から分家。初代店主久田金之助は、伝来の商人としての鋭敏なる頭脳と手腕を発揮しました。そして、初代を継いだ二代目の春義は、京都絞りが停滞していたことを憂え、絹布の京呉服絞りに活力を与えたのです。これが成功を収め、産地における功労者としての名誉を受けるに至りました。
大正・昭和前期に入ると、有松絞りはさらなる前進を遂げます。そして現在は「有松・鳴海絞り」の良さを広くアピールし、「伝統工芸品」の指定を受けるために尽力。その結果、昭和50年9月4日に「通商産業省指定伝統的工芸品」として愛知県第一号の認定を受けました。
新感覚の絞りを提案する久田
久田は伝統を受け継ぎながらも、つねに「今の時代」を表現するデザインを開発し、くらしという広い領域で製品を創り続けています。和装はもちろん、洋服、ファッション小物、インテリア小物へと絞りの発想を広げ、魅力ある製品作りを追求しています。すでに海外にも輸出される国際的製品に育った有松絞り。国境を越えてもなお愛され続けている理由は、そのあくなき探究心にある。現代に脈々と生きる絞りづくりこそ、久田のめざすところです。
1608年 | 慶長13年 | 有松村開村の為に知多半島阿久比から8名で移住 |
---|---|---|
1610年 | 慶長15年 | 名古屋城築城開始 |
1611年 | 慶長16年 | 絞り染めとの出会い 絞り染めの研究開発が進む |
1625年 | 寛永2年 | 有松村の居屋敷、地租無税になる |
1681年~1683年 | 天和年間 | 天和年間には絞業を営んでいた(出典:有松町史) |
1784年 | 天明4年 | 大火で有松村全域が灰燼に帰す |
1789年~1801年 | 寛政年間 | 伊藤治郎左衛門(松坂屋)と商取引 |
1868年 | 明治元年 | 明治維新 有松絞の衰退期に入る |
1871年 | 明治4年 | 廃藩置県 愛知県額田郡有松村になる 絞商特権の消滅 |
1900年 | 明治33年 | パリ万国博覧会に綿布絞を出品し表彰される |
1913年 | 大正2年 | 橋本屋から分家 10代目橋本屋から分家し久田伊右衛門となる 10代目橋本屋伊左衛門(久田伊右衛門)(初代 久田金之助) |
1928年 | 昭和3年 | 2代目 久田金之助病没により 3代目 久田春義 家業を継ぐ(当時15歳) |
1938年 | 昭和13年 | 戦時統制令の施行(綿糸配給統制規制) 戦時中、絞業は企業整備令により、統合される(愛知絞販売) |
1945年 | 昭和20年 | 第二次世界大戦の終戦 |
1948年 | 昭和23年 | 愛知絞販売を久田春義引き継ぐ |
1983年 | 昭和58年 | 3代目 久田春義 勲五等瑞宝章叙勲 |
1990年 | 平成2年 | 3代目 久田春義 従6位叙位 4代目 久田耕一郎 社長に就任 |
久田の初代である「久田伊左衛門」は江戸初期に森川香山により開かれた弓道の流派である「大和流」の弓術師範であったことが愛知弓道連盟の歴史に記されております。
そういった歴史的な繋がりもあり、久田では新たな取り組みとして、週末やイベント時にミニ弓道と呼ばれている「四半的弓道」の体験を行っており、絞りを利用した弓道用具の販売も行っております。
有松でも数少ない、茶室を併設する久田本店では、展示会などのイベント時に「お茶会」を開催しています。
四季折々の姿を見せる庭園を眺めながらのお茶会も是非、お楽しみください。
久田では春・夏・秋の年3回、展示会を行っております。
展示会では新作絞りや季節商品の販売から、振袖・着物のご相談なども行っております。
【春の展示会】 毎年2月下旬開催
【夏の展示会】 毎年6月下旬開催
【秋の展示会】 毎年10月下旬開催
有松しぼり久田のお知らせページにて過去の展示会の様子がご覧になれます。
テレビ・雑誌・新聞など、久田の店舗や久田が販売する商品はいろいろなメディアで掲載・紹介されています。
今まで掲載されたメディアを一部、ご紹介いたします。